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春爛漫を表現してツバキとレンギョウを生ける

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なにせ春爛漫である。 春になれば花は咲き乱れ鳥は唄い人は浮かれて花を愛でに出かけるのである。 赤い花がツバキ(椿)で黄色がレンギョウ(連翹)である。 葉の緑とレンギョウの花の黄色とツバキの花の赤で、みごとに緑黄赤の信号機を表現しているのである。 何言ってるの? まあ、ツバキと非常に似た花にサザンカがあるが、ツバキとサザンカはともに種類が多く見分け方が非常に困難である。 ざっくりとした見分け方は、おおむねのツバキはボトンと花がまるごと落ちるのに対して、おおむねのサザンカは花が一枚ごとに散るということである。 今回生けた花はみごとにボトンと落ちる花であるので、おおむねツバキである。 そのボトンと花がまるごと首が落ちるように落ちるところからツバキは江戸時代の武士に嫌われ、現在でも縁起が悪いとする向きもあるが、ツバキからすれば大きなお世話である。 赤い花なら曼殊沙華という詩があるが、あたしに言わせれば赤い花ならツバキである。 つまりツバキ派の華道家といえるわけである。 ううむ、意味不明だ。 レンギョウの開花期は3月から4月で、まさに春の花である。 もちろん某宗のお題目のナンミョーホーレンゲーキョーとは無関係で、連翹の連は実が並んで枝に付いていることの意味で、翹は雉が尾羽を広げて高く飛び立つさまの意味であり、転じて茎が高く屹立していることを表しているのである。 そのレンギョウで春の氣が吹き上げる様子を表現したわけである。 まあ、そんなとこかな。 ・ 象気功

春の力強い生命の息吹を表現してバイモとボケを生ける

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上部の小ぶりな釣り鐘型の花がバイモ(貝母)である。 バイモは別名をバイモユリ(貝母百合)、アミガサユリ(編笠百合)、テンガユリ(天蓋百合)、と呼ばれ、本来の産地は中国東部に分布するユリ科バイモ属の多年生の野草である。 あたしら茶道家の間ではバイモソウ(貝母草)と言い慣わした茶花でもあるのである。 誰が茶道家だ。 下部のあたしら華道家の間で言ういわゆるねじめ部分は、ほころびかけて今まさに花開かんとするボケ(木瓜)の赤い花のつぼみである。 誰が華道家だ。 ああ、いいんだ。 いちいちボケの花でボケるな。 うまいねどーも。 ああ、もうやんなっちゃった。 やんなんないでさっさと次に行け。 はいはい。 雑に生けてあるように見えるが、採集するときからこの風景になるように切りそろえたのである。 そこが、野山を走りまわって花を生ける自然派華道家としての矜持である。 春に力強く花開く生命の息吹を感じていただければ幸いである。 ・ 象気功

三寒四温を表現して雪柳と菜の花を生ける

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  まあ、地方によってはすでに春本番であると思うが、東京の3月上旬は、いわゆる三寒四温で、春もあれば真冬もあるという今日この頃である。 雪柳が寒で菜の花が温ということであるが、春の芽吹きということも併せて表現したわけである。 菜の花は我が自然農園にほったらかしで勝手に花を開くいわゆる食品である。 生けた後はもちろん洗って食っちまうわけであるので、この世に花開く一瞬をとらえたあれこれということである。 ありがたいありがたいと食えば菜の花を育てた土も微生物も喜び、すべてに供養となるわけである。 人間はとにかく他の生命体を日々食わなければ生命を維持できないという実に情けない生き物であるので、とにかく万物に感謝してありがたいありがたいと食いまくるのである。 食いまくるのかよ。 雪柳はさすがに食えないので、鑑賞するだけであるが、それでもゆったりとした曲線が醸し出す情緒は見るものにほのぼのとした思いを与えるので、それはそれでこの世に存在する意味がそこかしこにあるわけである。 生け花はその表現に関わらず見るものの視点で理解すればよいことであるので、その意図を解説するのは実に面はゆいことであるが、言わずにおれないハイパーグラフィアの業である。 何言ってるの? 知らんがな。 まあ、そんなことである。 ・ 象気功